本のメルマガ推薦文、書きました。


追記。先日のブログでもふれた通り、新刊の岸川真著『だれでも書けるシナリオ教室』(芸術新聞社)の宣伝文(「シナリオは「だれでも書ける」は本当である」──『だれでも書けるシナリオ教室』を編集し終えて──)を、[本]のメルマガ*1に書きました。

http://back.honmaga.net/

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*1:[本]のメルマガ vol.390「15日号という名の20日発行号」

*2:
日々誰でも妄想をよくし、脳裡に浮かんだ出来事を画にして弄び、そして弄ばれる。そんな画を何か型に落としこんで自家薬籠中のものとした者を芸術家とすれば、妄想力次第では「だれでも」ピカソ、芸術家への道も拓けないではない。
シナリオライターも同様にして夢想家、妄想家のはずだが、画を妄想するばかりか、インストールする容器まで自分でこしらえなくてはならないから、まるで陶芸家だ。いまだ画にならぬ「夢の素材」をいったんシナリオという器に形作るのが本業で、この器に実物をどう盛るかは、監督さんたち現場の方々の仕事である。
『だれでも書けるシナリオ教室』の著者・岸川真は「頭のなかの妄想を文字にしてひとに読ませて、さらには映像化してしまうなんて!」と言うが、たしかにそうだ。個人の脳内の画を文におこし、その行文から監督たちが画にするという当然のようで不思議な行程に、シナリオライティングは日々、向き合っていることになる。
「画文一如」、画は文の如し。画を文のように書き、文を画のように描くという考えに憑かれたのは夏目漱石草枕』だったか。漱石にとっての「画」は絵画、本書にとっての「画」は動く方の画で、映画。同じ「画」を描写するにしても、小説とシナリオの違いは描きかた、ひいては完成に費やす文字の分量となってあらわれる。
たとえば、語句をふんだんに駆使した小説描写[地の文]は冗長さを生みやすいため、シナリオにはありがた迷惑、監督たちの演出の妨げともなりかねない。地の文[ト書き]の書き方は、自由詩や俳句が良い勉強になると著者はすすめているが、まったく理に適っている。小説世界とちがい、実際には画にならない話と済ませる訳にはゆかず、筋書き[プロット]をしっかり固めないと作品にはなりにくい。また映画には上映時間という制限があるから、放恣な読書の時間に寄りかかるわけにもいかない等々。
ただしこのような制約を踏まえさえすれば、不自由の自由、自分の妄想の画だってシナリオに落としこんでいくのは「だれでも書ける」ものと著者は公言する。自分の撮りたい画を、撮りたい映画の型にはめればいいのだ、と。いたってシンプルなシナリオ創作術ではないか。
好きな映画を観た瞬間から、自分の観たい撮りたい映画の「型」づくりは始まっているのだ。もしそれが製作者になければ嘘であると言わんばかりの率直な見解だが、創作の目的と手段についての徹底的な自覚に、岸川メソッドの本質が宿る[それは彼の文芸作品についても言える]。みずからの系譜を包み隠さずさらけ出す書きものにはその人物の血が通っている。だから読んでいるとその人となりが透けて見え、清々しさを覚える。本書もその例に漏れず、自作の映画シナリオを堂々と全文公開、それを叩き台にすることで、「だれでも書ける」シナリオライティングを読者が追体験できる実用本だ。初心者から上級者までだれもがひっかかりを得られる本である。
本来ここで完結のところ、著者・岸川真はそれに飽き足りない。最終部では、実際に書けるようになったシナリオライターに向けて、読者を導いたこれまでの自分の方法をひっくり返す主張まで展開し始める。それがどのようなものか は読んでのお楽しみとさせていただこう。