〈圧縮〉できる文学?!

urotanken2007-05-27







5月19日明治大学にて行われた、日本フランス語フランス文学会でのワークショップのひとつ、ジュール・ヴェルヌ再発見と題したヴェルヌの発表を聞いた。発表者は私市(きさいち)保彦氏、新島進氏、石橋正孝氏、芳川泰久氏の4方(発表順)。私市氏は文学史からみたパラダイムの転換期に位置づけられるヴェルヌの作品の性質を説明し(「ヴェルヌの科学冒険小説とパラダイムの転換」:19世紀的なゴシック小説、ロマン派的物語構図からの脱却としての科学小説…,etc.)、新島氏は専門であるレイモン・ルーセルにみるヴェルヌの影響を述べながら(ルーセルはヴェルヌに最大限のオマージュを捧げている)、ルーセルはヴェルヌを、いわゆる子供向けの本といった啓蒙書としてではなく、大人向けの書物として読んでいると結んだ(「ルーセルはヴェルヌのなにを受け継いだのか?」)。石橋氏は、ヴェルヌを世に送り出した編集者ピエール=ジュール・エッツェルがかくもヴェルヌの作品に手を加えていたかということを細かく傍証していた(「ピエール=ジュール・エッツェル」と〈驚異の旅〉」)エッツェルについては私市氏も本を著している(『名編集者エッツェルと巨匠たち フランス文学秘史』本体価格5,500円+税、ISBN9784788510388、新曜社、2007年)。

名編集者エッツェルと巨匠たち―フランス文学秘史

名編集者エッツェルと巨匠たち―フランス文学秘史


最後に芳川氏は、「ミシェル・セールからの可能性」として、Michel SERRES,Jouvences sur Jules Verne, Editions de Minuit,1974. からの引用断片をもとに、ヴェルヌの文学を端的にまとめた。


ヴェルヌの作品には科学的な情報など多くの情報がつまっているかにみえる。しかしながら、読んでみると感じられるヴェルヌの作品のある種の「わかりやすさ」と「うすさ」という特徴は、たとえば多くの情報がやはり詰まっていると感じられるバルザックのものとくらべてみると、大きな違いがある。それはヴェルヌの場合、いかに情報過多でもその情報の質・量ともに「圧縮」可能である小説であり(圧縮しても情報が劣化しないということ)、バルザックの作品を「圧縮」するとすれば、削除ないし劣化が伴う質量の小説であるということ。圧縮できるということを、セールは〈写像 Applications〉という幾何学の言葉で説明している。ある作品から別の作品への〈写像〉であったり、作品相互の〈写像〉であったり、科学的知見そのものへの〈写像〉がヴェルヌの作品の場合、可能である。この写像は別の言葉で言えば、〈翻訳 Traduction〉ということであって、〈翻訳〉可能なものは文学ではない、ゆえにヴェルヌの作品は文学ではない、と言い切った(可能性と題していながら)。文学は写像できないシニフィアンであるということ。芳川氏は、ヴェルヌを単体で語ることのむつかしさをセールの著作から感じることもその証拠ではないか、と洩らしていたが、セールの場合、多くの科学的パラダイムから論じているので、そうとは言い難い。が、ヴェルヌは〈冗長性〉の注入者であるとしたら、ヴェルヌ作品という非文学はどんな領域の作品ということになるのだろうか。どのヴェルヌ作品を読んでも、他のヴェルヌ作品、ないし別の知見に翻訳可能であるという冗長性の文学とは、いわゆる文学という名前では括れない何かであり、〈翻訳〉できるということの面白さもきっと読者は感じているに違いないのではないか。ちなみに、新島氏・石橋氏らが中心となって、日本ジュール・ヴェルヌ研究会を発足したとのこと(右上てっぺんの写真は会誌の「Excelsior !」創刊号表紙)。それはそれでたのしみである。