文学という毒

urotanken2007-10-14




9月下旬に、青山学院大学文学部日本文学科主催(国際シンポジウム、らしいが、そんな感じもしない小さなイヴェント)に行ってみた。はじめに市川團十郎(青学の客員教授らしい)と学長武藤元昭氏(日本文学者)の歌舞伎をめぐるおしゃべりがあり(つまらん話だった)、團十郎目当ての多数の年輩者が席を占めていた。第二部の学者発表は閑古鳥状態に近い。ジョン・ガーディナー氏(スコットランドアバディーン大学)のミュリエル・スパークという作家の小説に溢れる〈毒〉=皮肉は、スコットランドとイギリスとの歴史的背景をよくよく吟味しないとちんぷんかんぷんになりそうな話だった。富山多佳夫氏はジョナサン・スウィフトガリヴァー旅行記』における老人をめぐる〈毒〉舌を皮切りに、英文学作品のなかの老人の扱い方をめぐる〈毒〉素を概観したかたち。最後に紹介したチャールズ・ディケンズ『デイヴィッド・コッパーフィールド』の老人と少年を描写した一節は、とても味わい深い箇所であった。

空のずっと高くにまで凧を上げているおじさんの姿を眺めていると本当に胸があつくなったのをよく覚えている。おじさんが家の中で、わしの意見をはりつけて世に広めるんじゃと言っていたのは、中断続きの回顧録の反古にすぎないのだから、ときおりの空想にすぎなかったのかもしれないが、外に出て、空に舞う凧を見上げ、その糸のぐんとした手応えを感じているときのおじさんは別だった。そんなときほどおじさんの表情が晴れやかになることはなかった。夕暮れ、緑の斜面にすわって、静かな空の高みに舞う凧をじっと見つめているおじさんをそばから見ていると、その凧がおじさんの心を混乱の中から引き出して大空に運んでくれるような気がしたものだ(幼い私はそんな空想をしたものだった)。やがておじさんが紐をたぐると、美しい光の中から凧がゆっくり、ゆっくりと降りてきて、バサッと地面に落ち、死んだものか何かのように動かなくなり、おじさんもおもむろに夢から覚めるかのようだった。今でも覚えている、おじさんがその凧を拾いあげて、まるで一緒に降りて来たかのように途方に暮れて左右を見まわす姿を。それが、私は気の毒でならなかった。


私がこれまでに読んできた英文学の作品すべての中で、これが一番好きな文章である。この夕暮れのやわらかな光の中に浮かぶ老人と少年の描写の裡に、英文学が達成しえた最もすぐれた哀しみとやさしさの表現がある。これは一枚の宗教画である。*1



「気の毒」というのがよい。



バトンタッチしてようやく高山師の番だったが、ロバート・バートンの『憂鬱の解剖』の話からいざ、17世紀中葉のイギリスから250年ものあいだ残っている英語〈English maladie〉(英国病)は、〈きちがい〉を指す精神病の謂であったという(北海から吹いてくる風によって〈イングリッシュ・マラディー〉の患者が増える?!という噂もあったそうな)。



*2


病という〈毒〉のイメージ。時代は1660年代、英国では、「ロンドン王立協会」設立、〈毒〉のない「言語の健康体」(simplicity)、〈オーソドックス〉を目指すなかで、〈パラドックス〉の文学が駆逐されてゆく背景が生まれる。さて、〈パラドックス〉は…という段で、富山氏が「これ以上話すと何時間も話してしまうから」と制してしまった。高山師は少しむっとしていたが、おむずかりはその後の、日本文学者のレジュメ音読のような発表でさらに強まってしまったもよう。日本文学のご三方の扱っているテーマ*3が面白くないとは言わない。ただ、パフォーマンスに欠けるから、聞こうにも聞きにくいことは否めなかった。誰もが関心をしめすわけではない専門的な話題を、誰が聞いているかわからない公の場面で、だらだらと読むように「発表」するのは、やはりサービス精神がないと誤解されても仕方がなく、損なやり方である。専門的な話を少しでもわかりやすく、気軽に聞かせるように「話」をして欲しかった。しかも、エンターテイナーの高山師よりも所要時間をかけてであるから。


最後に出席者からの質問を取り上げて、発表者たちが云々という場面になったが、高山師に対する誹謗中傷文があった。首都大学東京の肩書きで、好きなことを云々、知識をひけらかし云々、といったつまらぬ「悪」文であったが、高山師はその「悪」文にいちいち、その通りですと平然と交わし、他の発表者たちの質疑応答の時間を構わず、続きの話を20分くらい続けたあたりが、山師の、子供だけどちょっぴり大人な一面を見せられた気がした。富山氏は高山氏の一年上の先輩で友人という間柄でもあって、愚劣だ、何もわかっていないと自分事のように怒っていた。長島氏もこういうのは「毒」じゃないんだよ、馬鹿とさらに怒っていた。ぼくは、勝手に首都大の状況を全く知らない輩ではなく、ただのやっかみのようにしか聞こえなかった。富山氏が「ブログの文体」といったこともそうかもしれない。つまり、学生か、若者の言葉のように思った。わざわざシンポジウムにやってきて、そんなことを伝えにきた誰かさんをただ、「気の毒」に思った。

*1:確認していないが、おそらく富山氏自身の著作から引いてきたものと思われる。

*2:高山師が話し始めているところ。性能のよくないデジカメで少し撮ったもの

*3:島弘明氏(東京大学):秋成小説の「毒」/大上正美氏(青山学院大学):中国古典文学の「言志」と毒/篠原進氏(青山学院大学):浮世草子の〈毒〉と奇想