優れた二、三のビュトール論から享けたこと

urotanken2007-09-09





ぼくはミシェル・ビュトール(Michel Butor,1926- )という作家に出会わなければ、フランス語学習はおろか、仏文専攻にまで進もうとは思わなかった。



大学院から仏文に入ったわけだが、研究なんて大袈裟なことはこれまで一度もしなかったと思う。フランス文学研究という名に資する何事かに勤しんだ覚えなどなく、着の身着のまま。ただ気の向くまま、自分のアンテナに素直に従ったまでのことである。ビュトールがただフランス人の作家だったというにすぎず、文学を学問として専攻するという選択にしたって、随分怪しいものだ。邪な自己目的のため、といったところ。



彼の作品ではじめて読んだのは今も忘れもしないが、《河出モダンクラシックス》というハードカバー(でも背がばりっといって、表紙カバーと本体が分離しかねない。ベージュと、題名シールが貼ってあるとても素敵な海外小説のシリーズだ)の単行本を、古本や*1で見つけて買った『心変わり』という、1957年に発表された長篇小説である。



1950年代後半当時のビュトールは紛れもない小説家として世に知られていて、二人称小説 を使用したことで名高いこの『心変わり』を最初に読んだときの衝撃は凄まじかった。興奮醒めやらぬまま、続けざまに翻訳されている彼の小説やエッセーをむさぼり読みながら、とりわけ小説について、なぜかくも退屈なことを細かに書くことができるのか、つまらぬことをつまらぬように書く徹底した凡庸さに畏れ入ったのだった。



ヌーヴォー・ロマン〉という簡便な括りのなかで、ビュトールの文学作品に出会うひとも多いのではないかと思うが、ぼくの出会い方はすこし違った。たしか、プルースト研究者であるジャン=イヴ・タディエというひとの『二十世紀の小説』*2という本のなかで、都市小説の作家として挙げられていたひとりがビュトールで、都市を主題的に扱う小説家を、自分の都市像の輪郭を明瞭にすべく、意識的に探し出して読んでは、小説内の都市像と自分にとっての都市とを比較していたのだった。



ヌーヴォー・ロマンの作家ではないビュトール個人の立場があり、それが肝だとぼくは考えている。いわばビュトールのうちに確固として存在し続けているのは、都市的体験とは何かという明確な問いかけではないか、と直覚した。都市とは文化、文明という人類が構築・蓄積してきた情報体が、あらゆる角度から交錯しあう織物の別称のことであり、そうした都市に対し、文学、ひいては人間は、どんな読みかた/書きかたの接近が可能なのか。都市を読み、書く、あるいは都市に書きこむことの試み。そのための書法という、方法的実践への強い意志が彼の書物の行文からは汲み取ることができた。だからそれがゆえにビュトールの主題は都市という実体かつ理念であり、都市こそが彼の書法を支える文学的な支持体であり、書法が指し示す内容物なのだ。




ぼくのビュトール観はさておき、世には眼光鋭い読者がいるものだと思う(それはそれはおそろしい)。大学でしこしこ文学研究とやらに励んでいても、こういう発想はできないだろうなと思ったものを、二三、noteしておきたい。アクロバティックで大胆な視野のもと、他流試合をしかけるような挑発的なものの見方はエキサイティングで、三度の飯くらい(?)大好きである。



ひとつは、bk1というオンライン書店*3でたまたま見つけた、ビュトールのエッセイ集『即興演奏 ビュトール自らを語るー』についての紹介書評のひとつ。中村びわ(JPIC読書アドバイザー)という方が書いたものだ。少々長いが、引用したい。

即興演奏(アンプロヴイザシオン)―ビュトール自らを語る

即興演奏(アンプロヴイザシオン)―ビュトール自らを語る

ヌーヴォー・ロマンの大立者が語る戦後フランス文学の中の自分、米国文化の発展、芸術・哲学と文学の関係、言語と政治・教育など。文学に限定しない広範で豊かな知により分析された、私たちが読み/書くことの意味。



のっけから「変容するこの世界のなかで、私たちのエクリチュールもまた変容してゆきます」とあった。?????(・▽・)?????キターッ!!!と思い、やっぱり仏文学者の論考など読み解けないかと杞憂を持った。しかし、アレルギーを起こしかねない「エクリチュール」の抽象性をひょいと跳び越し、ビュトールはすぐさまつづけている。

はるかに単純な意味、「書くという事実」という意味で「エクリチュール」という語を用いたいのです。(中略)私たちの社会ではだれもが高尚な意味でもすこしは書いていますが、それだけこのまったく一般的な意味でものを書いているという事実が見逃されてしまう。(8P)


 少し引用しただけでも伝わるのではないかと思うが、数ヶ所読み取りにくい部分はあるものの(それにしたところで至れり尽くせりの訳注がついている)全編このような分かりよい語り口で、現代社会のさまざまな人間活動と書くこと、ひいては文学との関係が述べられている。
 フランス文学、ことヌーヴォー・ロマン周辺に興味ある人にとっては、実験的な創作の意図が解説されている点でスルーできない重要な書であろう。植民地統治に終わりを告げ、戦勝国である米国文化の洗礼を受けて一大転機を迎えたフランスの戦後を分析している点で、現代のフランスに多方面から関心を抱いている人に、資すところ多い書であろう。しかし、そのような専門の垣根を越えて、先進諸国に暮らすすべての人にとって幾多の視点を切り拓いてくれている充実の書である。読破もしていない本を槍玉にあげるのは気が引けるが、昨今ブームになった『帝国』*4より、あるいは現代社会を透視できる座標を与えてくれるものかもしれない。

 マルクスウェーバーそれにつづくダニエル・ベルでもトフラーでも、社会科学者が分析し切れているのは財産中心社会から組織中心社会への移行である。その組織中心社会が高度に情報化されて今、大きな変動が進みつつあることは誰もが指摘するが、果たしてその行き着く先が何を基盤にした社会なのかは誰も見取り図を描けていないように思う。そのような世界の論壇にあって、文学者であるビュトールの言説は、私たち個人の営みの意味を地道に分析し、その先にある社会の変容(それを歴史と言い換えても差し支えなかろう)の分析をたぐり寄せている。

 これから社会はこうなるだろうという予言めいた展望の書ではない。戦後の西欧文化に自分というモデルを置き、個人が辿ってきた新しい文化の受容と読み書きの経験から、もう一度歴史を作る個人の営みを問い直しているように私には読めた。
 ここ数年で、大枠を用意して社会を分析しようという理論より、あらゆる表現がうごめく文学のなかで何かを得たいと思うようになった。そんな期待に、この文学者は十二分に応えてくれている。
 いくつかの文学作品からぽつりぽつりと拾い出してきた「価値」や「問題意識」などを、つないだり組み立てる方法を教えてくれる先生はいないものかと求めていたが、この本は明らかにそのための教科書である。もちろん経済や福祉、教育や環境などの問題について具体的な施策が述べられているわけではないのだが、そうした諸活動の元をなす言説の意味について書かれたこの1冊は、「刺激」と「内省への契機」と「知への信頼」にあふれていて再読に耐える名著だと思う。*5


現代の文化文明の「変容」に対して、人文科学の立場から問題提起しようとするビュトールの文学態度、受難の意味を、社会科学者たちの「価値」や「問題意識」という一般性に近づけながら、この書評者はきちんと読み込んでいると思い、センスある見方と感心した。上記の本はもちろん「教科書」などではないが、「教科書」という言葉を使ったあたり、慧眼な批評眼を持っている。現にビュトールは、読み書きの、たとえば書物における読者/作者という、遠からず近からずという意味で、個人関係という近似値での文化・社会受容という情報システムを、〈教育〉的な配慮から問題にしようとしていた*6ビュトールが、ごくごく日常的な、当たり前の出来事・事象を選び取り、主題としていることと抜き差しならないことは言うまでもない。研究でこのような大風呂敷を広げてやろうとするのは、愚考だと切り捨てられるか、博士課程でやることだと言われるのがオチであろう。しかし、ビュトールが二十世紀後半の人間であることを考えると、とても無視するわけにはいかない情報化社会、消費社会への架け橋にあたる世代ではないのか、と言いたくなる。



いまひとつは、やはりネットで知り得たある人の意見である。この人の確信の強度の背後に、ただならぬ読解力の深さ、鋭さがきらりと光る。二つの引用(意見)をほぼそのまま掲載したい。

心変わり (岩波文庫)

心変わり (岩波文庫)

ヌーヴォー・ロマン」と呼称される、1950年代以降の膨大な文学作品群のなかにおいても最高レヴェルを誇るハイ・ファイな画質を脳内に流入させる、1957年発表の<2人称小説=フィルム>。



マラルメを私淑していたミシェル・ビュトールにとって、「生きているテクスト」を建築するという命題は決して一笑に臥されるものでは無かった筈だ。



我々読者と主人公の男性とを共に「きみは〜」と定位し上映されてゆく本作品は、読者である「きみ」自身がこの「フィルム内世界」におけるアクター/アクトレスとして生き、逡巡し、愛することを可能たらしめる。



パリからローマへと向かう三等列車の窓に滴り落ちる雨の雫から、柔らかなベッドの中にてささやく愛人の表情のわずかな翳り、といった細部にまで至る、「肉眼と完全に同質の光景」と「作品世界内の時間」らが読むものの意識に侵入してくる様は、「真夜中にまざまざと上映される、DVD並みに鮮明な夢」の知覚を遥かに凌駕していると云っても過言では無い。



この小さな書物のページを手繰ってゆくあなた=主人公「きみ」の「現在」の意識内容と、「過去」の回想、そして「未来]への回想。
この書は”生きている”。
この書物の内部へ呑み込まれた「きみ」(読者であるあなたの事だ)と愛人「セシル」との逢瀬、愛の歓び、ローマの美しき陽射しと光景、荘厳さを湛えた古代美術、それら総てが内包する≪聖なるもの≫(ロジェ・カイヨワが、読者であるあなたのおぼろげな記憶と混ざり合い、混濁し境界線の消失した反/非時間だけが透明な静けさのなかにゆるやかと流れてゆく。

…最も近似値を感じていたテクストはアウグスティヌス『告白』*7でした。

”直線的時間軸”の否定、
シニフィエとのみ戯れて近視眼的生を生き苦しむ男が”氾濫するシニフィアンの洪水に溺れている”というプロットが過剰なまでに強調されていること、それらに気付きこれまでの”判断を変更”=”心変わり”し、新たな生=時間へと向かう過程の微細な”自伝”=『告白』。



M・B*8が、アウグスティヌス的時間軸を生きていたとするならば、彼のテクストは「新鮮さ」や「かび臭さ」、
つまり「未来←現在←過去」という「ヒストリア的世界観」内部の概念として位置づけられる「シーニュ」とは全く異なるベクトルへと向かっていたことになります。


M・Bはアウグスティヌス『告白』に”自らというOS”をインストールしなおすことによって、
加えて
ギュスターヴ・フローベールボヴァリー夫人*9
=シネマ/フィルムの起源説
・までをも取り込み、

ボヴァリー夫人は私だ−
という言葉が本当のものならば、

(『心変わり』における)−”きみ”は”私(=M・B)”だ。

そして読者であるきみ(=貴方)なのだ−

という言説としても流通させようとしていたのでしょうか。


アウグスティヌス『告白』の映画化。 それも最高度の技術を凝らしたシネマとしての。
これこそ私が最も引っかかっていた疑問なのです。

…そして『心変わり』は
M・Bにとって
唯一の”神学書(の変奏)”であり、
唯一の”小説家としての自伝”であり、
かつ同時に
奇跡的な密度の”愛”に人知れず満ちている
”シネマ/フィルム”ではなかったろうか。と。


「「未来←現在←過去」という「ヒストリア的世界観」内部の概念として位置づけられる「シーニュ」とは全く異なるベクトル」がこの方の述べる聖アウグスティヌス的時間軸かどうか、アウグスティヌスの書物を繙かなくてはなりません(未読なので言及は控えたい)。だけれどもしかし、小説中の「あなた」は読者であると錯覚させるほどのビュトールの強い要求を、読者=演技者としてしかと引き寄せ引き受けなくては、ここまでの強い理解にはいたらないということは言えると思う。ぼくは、この人とは違って、ビュトールの小説における時間論への要求を、あえて「空間論」へと避けるかたちで論じたのだが*10、正直なところそうしたのは、ビュトールの時間観にまで射程を及ぼす判断材料を、紋切り型を超えるだけの時間論*11として展開するだけの力がなかったからである。この方が触れているアウグスティヌスの『告白』について、最近では、保坂和志がたしか『小説の自由』において論じていたということを思い出したのだが*12、内容がしかとは思い出せない。原テキストと併せて考えてゆきたい課題である。アウグスティヌスの『告白』における時間論・神学的側面・自伝という形式だけではなく、「奇跡的な密度の“愛”」がアウグスティヌスと関連するのではないか、と勝手ながら推測していて、それを是が非でも確かめてみなくてはならない。このビュトール『心変わり』評を書いて伝えてくれた御仁は、キリスト神学をよく知る人ではないかとも想像する。



引用したお二方の意見はまったく違った立場からみたビュトール像みたく思われるが、実際はそうではないのだとぼくは考えている。大変示唆的な意見をいただいたことを、ここで感謝しておきたい。

*1:神田神保町田村書店

*2:

二十世紀の小説

二十世紀の小説

*3:大手取次トーハンが運営しているもの。

*4:

<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性

*5:引用中の強調太字、色字、補足はすべてurotankenによる。

*6:まさに、小説4作目『段階』の主題であったと言えよう。

*7:

告白 上 (岩波文庫 青 805-1)

告白 上 (岩波文庫 青 805-1)

アウグス ティヌス 告白 (下) (岩波文庫 青 805-2)

アウグス ティヌス 告白 (下) (岩波文庫 青 805-2)

*8:無論、Michel Butor(ミシェル・ビュトール)のこと。

*9:ボヴァリー夫人 (新潮文庫)

*10:この場では詳しく述べられないが、また折りをみて書きたいと思う。

*11:たとえば、プルーストジョイスら先陣の小説家からの影響関係といったお定まりの見方以外のもの

*12:

小説の自由

小説の自由

「散文性の極致」という考察である。