一つの可能性

urotanken2007-12-13




過ぎし11月3日(土)、
マチネ・ポエティカ主催、BankART 1929 共催による、リーディングパフォーマンスライブ「一つの可能性 text by ミシェル・ビュトール『段階』 D'après "Degrés" de Michel Butor, Editions Gallimard pour l'œuvre originale」が横浜・馬車道で行われた。

『段階』はフランスのリセの一学級を舞台とした物語である。地歴教師ピエール・ヴェルニエが、授業で受け持っている甥っ子のエレールの14歳の誕生日の日に、アメリカ合衆国の成立についての授業を、彼のためだけに特別授業をしてあげようと考える。無論、ただ授業を行うだけでは甥っ子がプレゼントとして授業にのぞんでもらえるかどうか定かではない。この甥っ子がどんな心持ちでその授業を受けることになるのか、それをヴェルニエ自身知ろうと願い、甥っ子の立場に立つべく、同時に行われている他のクラスの授業、課外での子供たちのイヴェント、学校休みのヴァカンスにいたって、詳細な記述を試みようと企図する。ヴェルニエはほぼ一年間に及ぶ、一学級の生徒や先生、生徒の家族に及ぶ膨大な記述を、一冊の本に仕立てて甥っ子にプレゼントしようと考えたのである。この企画が頓挫することは言うまでもない。自分の目論見を内緒にしながらこの教師は、当の甥っ子と契約を結ぶようにして、生徒たちの動向を逐一報告してもらうのだが、そのことに薄々気づき始める周囲の生徒たちと甥っ子は気まずくなってしまい、甥と教師の関係そのものも悪化させるにいたるのだ。

授業内容の見聞など、冗長な記述で構成されているのが『段階』の特徴だが、複数の人間たちの声を操るヴェルニエの苦悩を、芝居風に仕立てあげながら、彼の構築への意思とは裏腹に、周囲の関係の悪化、瓦解といったヴェルニエの失墜をうまくまとめあげたという印象を持った。とりわけ、万霊節のシーンにおける、コーラスのはもりやエコーの効果は、物語のリーディングにメリハリをつける、オリジナルな演出であった。今はなき竹内書店から出された翻訳『段階』*1の背帯〈《直角》への情熱〉とあるように、ビュトールは『段階』で、複数的な物語を構築することをねらいとしていた。モンドリアンコンポジションのようでもあり、平面的であると同時に立方体のような作品をそこで模索したのだった。ビュトールの小説には欠かせない、同じ主題の反復と差異、差異から助長される強迫観念が複数的な色合いの音色を醸し出す。大団円にいたる苦悩のピークあたりは興奮させられた。

ところで、はじまってしばらくすると、ビュトールがシャルボニエのインタビューに答えたときの言葉が、後ろのスクリーンに並べられたのも興味深かった。

 

私は瞬間的な意識化を求めるのではありません。意識化につながりうるような形にそれらの言葉を配置するのです。理想的なのは、言うまでもなく私たち一人一人が言葉の帝国の全体性を再発見し、言葉の帝国の全体が私たち一人一人にとって眼に見えるものになることであり、さらに私たちの一人一人が、再び光に満ち完全な明るさを取りもどしたその帝国の中を散歩できるようになることです。(邦訳、28頁)*2


企画・構成・演出を手がけた武藤真弓さんは、ロブ=グリエの『嫉妬』と併録された文学全集で『段階』を知り虜になったそうです。それにしてもこんなマイナーな作品で、聴衆はついていけたのだろうかという心配はある(内容を知っていないと大分きつかったのではないかと思うが、ビュトールがどんな作家であるのか、ビュトール自身の言葉によって少しでも補足しようとしたことはプラスに働いたかも知れない)。
カール・ストーン氏の手がけた音響制作もよかったのだろう、武藤さんも興味があるというビュトールの『段階』以降の仕事、たとえば共作している現代音楽の作曲家アンリ・プスールの曲*3を聞いているようだったと、今振り返ってみると不思議とそう思う。すると(?)彼女の演出はやはり成功だったのではないかと自信を持って言いたくなるのだった。

*1:

段階 (1971年)

段階 (1971年)

*2:

ビュトールとの対話 (1970年) (AL選書)

ビュトールとの対話 (1970年) (AL選書)

≪ M.B.- Je ne demande pas la prise de conscience instantanée, j'organise ces mots de telle sorte qu'ils puissent mener à une prise de conscience. L'idéal, naturellement, ce serait d'arriver à ce que chacun de nous retrouver la totalité de l'empire des mots lui redevienne visible, qu'il puisse se promener à l'intérieur de cet empire redevenu lumineux,…≫ Georges Charbonnier, Entretiens avec Michel Butor, Paris:Gallimard,p.26

*3:たとえば、「liège à Paris」(Sub Rosa)などを彷彿とさせる。