本とのホントのつきあいかた

学業から離れてものを学びたくなる(習うのではなく)心性は、学生時代への郷愁ではなく、怠け者の気まぐれというものだろう。本を読めるときに読まず、読めないときにばかり読もうとするといった具合に。

ところで、「先生はえらい」の内田樹ではないが、先生を先生だと思う尊敬の眼差しを向けぬと、他人からものを習おうという気にはならないものだ。生意気根性の人間というのが必ずいて、そういう輩は偉そうに他人をおちょくったりするが、本との付き合いのなかで、自分の人間観察のありようを無意識裡に決定していたりするのだろう。その意味で本の著者たちこそ読者にとっての先生で、本が先か先生が先かは各々の巡り合わせに決定されるところがある。自分の場合は前者であるといいたいが、父という生身の存在も読書家であり、おそらく本の積み重ねによってできた人間、父=書物と考える節があり、やはり前者だと言ってよいと思う。そんな風だから、自分がそんなに多くの書を読んでいるわけでもなかろうに、本をちゃんと読んでいる人間かどうか、というつまらぬ見方が、先生を判断する基準だったような気がする。そして、素晴らしい先生に出会うよりも、素晴らしい本に出会う確率のほうが高いということもあって、先生に期待するよりも、本に人生の、心の師を見出そうとする傾向の読書もしてきた。青春の読書というやつだ。ひとりで本を読んで考えることが、相手の著者の言うことに耳をすませることが出来るし、自分への響き具合響かせ方も、個人授業ゆえに心に残るのだった。


大学の授業でも、著書が素晴らしいのに授業のつまらぬ先生、授業は面白いが著作はぴんとこない先生とまちまちだった。問題は、先生の授業の内容ではなく、語りの思想が聴き取れるかどうか、にあった。考えている内容は著作から自ずと知れる。しかし、その人間がどういう人間か、どのような考えを持って世界に対しているのかということが、生身の人間から知れることは貴重な体験である。私はさいわいにも、尊敬に値する二人の先生を、まず著作を通じ、ついで対面することで見つけることができた。


本を探す行為は、どこか人生行路をさぐるのに似ている。たった一冊の本に出会うために、一生探し続ける人間もいるだろう。私のたった一冊の本は、もう見つかってしまったかも知れない。しかし、その本が自分の人生とイコールかどうか、それはまだ分からず断言しえない。どこかに不満がある。その不満は別の本が補い得ることなのかといえば、きっとそうでもないだろう、そんな気がする。マラルメの「書物」のように、読書家のめいめいは日々そんな一冊を夢想しているにちがいない。世界という茫漠を一冊に収録できると考えてみるのは何と愉しいことか。するときまって、百科学が始まる。全体と部分、総合と断片、カタログの思想だ。本を集めるということは、じつは本を散らばらせることであり、マクロコスモスでもミクロコスモスでもあるのが本である。本との付き合いたったそれだけで一個の学問になる、そういうことにちがいない。少なくとも文学の場合はそういうことだ。


古本屋の親爺が言ってたことだが、古本を漁っているやつは勉強しないという至言がある。たしかに、本ばかり集めていて気散じになって、肝心のことをどこかに忘れてしまうことは大いにあり得る。自分の身にも当てはまることだろう。どういうことかというと、自分の専門分野の本だけ読んでいれば、専門家になれるかも知れないが、そんな当初の目的からはずれていくと、本のネットワークの深みにはまって、自分の関心事さえ見失うおそれがある。正確にはあるものから別のものへと気が移るのだ。



余計なお世話だが、古本屋ブームというものに私は懐疑的で、あまり感心しない。というのも、古本おたくは所詮古本おたくであり、古本おたくのために古本屋があるわけではやはりないと思うからだ。すべての人を受け入れる古本屋であって欲しく、セレクトショップというものは下手をすると個人観の押し売りのようなところがあって、だからカフェというものもあまり好きではない。見上げた精神、絶対なる自信があるならまだしも、大した思想も持っていないのに、自分の主観だけでセレクトして、本を切り売りするということはとてもじゃないが、自分には恐ろしくてできない。古色蒼然とした古本屋の佇まいには、ある関心分野に重きをおきつつ、たとえ興味のない分野をも見通す配慮の視線がちゃんとある。要するに懐の深さが書棚に滲むのだ。稀覯本珍本などの類いに血道をあげる連中にはポリシーがあるとしても、そこから思想が見えてこない。古本でないと見えてこない思想などなく、新旧かかわりなく本こそが思想なのであって、本がたとえ読まれない時代であっても、人は本に何かを託すのだから、必要以上に、あの本この本と取り上げるのは本当は傲慢であることを自戒をこめて強調しておきたい(そうはいっても、たとえば本のガイド本の類は、その人間の傾向が知れて好きなのだが)。

古本屋ブームなんてものが一般の読者から自然に生まれてくるわけがないんで、古本愛好家の人たちが自分たちの生活を支えるべく仕掛けた立派な経済活動だと考えている。しかし、古本にかぎらず、新しい物好きの自分が乗れないのは、サークル的で戯れてばかりいる気がするからだ。古本道という愛好家の十人十色の押し売りはいいから、一度、愛好家で真剣に、自分たちを狂わせる古本の何たるか、古本学を築いてもらえないだろうかと期待している。浅羽通明が言うように、出オタクでないと普遍的なものにならず、したがって世間一般には流通しないのだ。私であれば、自分の古本読書遍歴を分析にかけて、思想・思考の存立構造を明示させようとするだろう。

自己の趣味を学問に高めてしてしまう野蛮なこころざしが、本を媒介、対象としている以上、目覚めてくるに違いないと信じる。本を飾り物と考えて売っている時代遅れの馬鹿者がまだいるようだが、それは本当の本の位相ではないと思う。