イメージの抽象度が高いと郊外になる

urotanken2009-05-19









ただモデルの女の子に惹かれて、アイフォトしたわけではない。これは大学予備校の広告写真だが、2月後半から4月にかけて、大勢の人、とくに若者にとって人生の節目にあたる時期。平たく春が来るとでも言おうか。入学に卒業、就職、転勤等々…。移ろいのとき。私もこの時世になるといまだに、帰京の夢叶えし大学入学時を思い出す。

予備校生活も、大学生と等しく春を迎えるわけで、現役高校生などはまだしも、浪人生にとっては切ない季節でもある。このポスターは、来春の春を間遠に迎えようというイメージか、まあそんな意味づけなんてどうでもよい。

気になったのは、ポスターの可愛らしい女性ではなく、彼女たちの背景のほうである。女性にピントを合わせるがあまり、背景はぼかして、どこかはわからない場所になっている。何ら変哲もないありきたりの写真だが、この何の変哲もないことに、気持が向いた。ぼかしても一向に構わない、否、ぼかした方が当然良いと処理されているような「何の変哲もない」場所って何なのだろうか。私としては、ぼかしてあるから尚更、ぼかされた場所に興味がむくっと湧いてきてしまう。下衆の勘繰りであるが、ちょこっと書いておきたい。


場所をぼかされたイメージ。イメージの場所は、〈どこでもよいどこか〉、〈どこでもないどこか〉といった曖昧模糊とした場所にされてしまう。場所が曖昧になるということは、「その」場の具体、特殊、固有という性質が削れているということだろう。こうして、属性が消されていくと「その」場は宙づりにされて、場の方は「どこか」として偏在する。結果、その「どこか」は確定されることの難しい、実体を欠いた抽象都市になる。加算では計測できず、減算によってどうにかイメージできる抽象的な場所として生まれ変わる。否定神学的都市の誕生。きわめて抽象度が高いものの、どこかであると想定されるという点では、ユートピア的といってもよいか。ユートピアも、思考、感覚によって夢見られた言語都市には違いない。どこにもないという、実体の欠如がユートピアであるが、どこでもないという属性の欠如で考えてみると、どこか郊外都市に似てくる。抽象度の高さは郊外の性質のひとつである。


郊外都市の実体について、固有の地名を纏っているとはいえ、個々の具体的な都市イメージがすぐに浮かびあがってこないところに特徴があるのではないか。街場から除外される、マイナスのバイアスをかけてはじめて、郊外の郊外性が明瞭になることは言うまでもないが、郊外には、都市と対比されることで出てくる性質以上の、「場所」の原質を解く鍵があるのではないか。言語的な場であり、かつ実体のある場所。郊外が独自性を持ち得ないかわりに、それぞれの町が持ち得ない包括力、集合性を備えているのが郊外ではないだろうか。そこでは、「新百合ヶ丘」「青葉台」「戸塚」といった地名記号が無効である非-場所。どこでもよいどこかという投げやりな中性の地。抽象的にならざるを得ない具体性の希薄。イメージとしての都市=郊外。郊外の面白さはそんなところにあり、これはこれで人間らしい土地と言えないものか、そう思う。