語り得るもの/語り得ぬもの

urotanken2008-02-11




とうに過ぎたが、昨年12月、同時期に出た文芸誌が同じ漫画家へのインタビューを掲載していた。掲載したのは「WB」(WASEDA bungaku FreePaper)Vol.011_2007_winterと創刊したばかりの「エクス・ポ」vol.01。どちらも取り上げていたのが榎本俊二という漫画家が完結した『ムーたち』というシリーズについてである。

ムーたち(1) (モーニング KC)

ムーたち(1) (モーニング KC)

ムーたち(2) (モーニング KC)

ムーたち(2) (モーニング KC)

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ムーたち』のために「概念のストック」をしていたと榎本俊二は述べている。

―その「概念のストック」は、いつか作品に活かそうと思って以前から蓄積してきたものだったのですか。
榎本いや、考えるのが好きだったというだけです。10代の頃なら一度は思いつく、誰もが共感出来て誰もが考えるようなことが世の中にいっぱいあるわけですよね。例えば「死んじゃったらどうなるの」とか。でも、そんなことで思考停止してたら仕事や勉強も手につかなくて、ある意味、日常生活ではゴミ箱行きの無駄な思考。だけど、誰もが思うことだし、それを誰もがわかるように、正面からマンガ化した作品って、あるのかもしれないけど、自分は読んだことがなかった。でも、本当に中学生や高校生の頃はシャレにならないくらい真面目なことだったので、それはすごくマンガになるのかなって気がしました。*2


ちなみに、「エクス・ポ」は音楽・文芸批評家の佐々木敦氏が編集発行人となった文化雑誌で、サブカルも文芸も音楽も漫画も芸術も全部扱ってやろうという気概が、隙のない紙面から伝わってくる若い雑誌である。16頁に押さえつつ4色刷の厚紙で、値段が1000円とちと高いが情報は盛りだくさんである。*3



かたや「WB」については説明を要すまいが、このあいだ『乳と卵』*4芥川賞を受賞した川上未映子女史による、「川上未映子の対談だぜ!! 2」のゲストとして榎本俊二が選ばれていた。それもそのはず、川上未映子の小説『わたくし率 イン歯ー、または世界』*5で語られる世界と、榎本俊二の『ムーたち』の世界は期せずして同じ主題を巡っているから無理もない。「ムーたち」の一巻目の第一話(moo.1)名は「私率(わたくしりつ)」であり、「イン歯ー」的場面は、同巻moo.12「移痛(いつう)」でも重なっている。


[榎本]たたみかけてる感じはしますけどね(笑)。川上さんの小説を最初読んだとき、「痛み」を動かすとか、そのゆく末まで自分なりの勝手なルートで考えちゃうとことか、しかも舞台が歯医者さんだったりして、キーワードやビジュアル的に共通するところがまずあるなと思ったんです。たとえば「わたくし率」ってキーワードだけとっても、これって造語でしょう?
[川上]はい。
[榎本]同時期に言葉をつくっちゃってうふふ、って感じがありますよね。
[川上]うふふ(笑)。
[榎本]歯医者も、あの身動きのとれなさって、「こんな苦痛を感じてるのは自分だけだ」とか「自分が世界の中心だ」みたいに思わざるをえないぐらい集中するでしょう? これでもかこれでもかっていうふうに痛みを味わわせてくれて、もう哲学者か坊さんにでもなるかってくらい考えちゃう。


榎本が「哲学者か坊さん」と触れているように、川上未映子榎本俊二の作品に認められるのは、哲学的な考察自体を主題とし、描いていることである。それも、自我意識の肥大化を世界として取り扱っている。こういうことはたしかに、自分を拡張させていくことでしか見えてこない世界であり、人間の日常意識を助長させたものである。榎本の漫画に出てくる言葉としては「セカンド自分」「サード自分」の行方を描くことである。川上はそれを言葉で書いた哲学小説として、榎本は絵を描いて哲学漫画とした。だから、彼らの作品の面白さとは自我を極端なまでに見つめることであらわれる自分世界の面白さであり、世界そのものの面白さではない。独我論すれすれのところを紡いでいるといってよい。「私率」「わたくし率」が充満するのは、世界の、ごくごく僅かな局面局部にすぎないのである。



「語り得ぬものについては、沈黙しなくてはならない」と語ったヴィトゲンシュタインの言葉が頭をよぎるが、「語り」の技法については更新され得るのだと考えるのはあまりにナイーヴな進歩志向だろうか。川上や榎本のやっている世界は十分面白い圏内だが、面白すぎる域には達していない。なぜなら、「語り得ぬもの」については語り得ていないからである。その意味ではヴィトゲンシュタインの言葉に忠実に従っているといえる。彼らの〈おしゃべり〉な文法技法では、いまだ「語り得ぬもの」の沈黙を超えられないということは露呈している。更新すべきは、「私」の技法ではなく〈世界〉を語る文法を掴むことにある。彼らの描く〈私世界〉は、悪い意味での日常性やイノセントに堕している気がしてならない。彼らの〈私世界〉解釈はどこか古くさく、誰もが既に知っている(気づいている)世界なのだ。世界という名前はむしろ、未知であるものを指すのに相応しい。未知なるものを呼びこむシャーマンのように、圧倒的な〈世界〉、高い〈世界率〉が〈私世界〉のなかへ流れこんでくるダイナミズム、〈世界率in私世界〉のほうを私は好む。世評で彼らは「天才」呼ばわりされているが、〈私語り〉の「天才」ではあると思う。

*1:ムーたち 2』(moo.66 カウントる人)より

*2:「未曾有のマンガを更新する」と題されたインタビュー記事(16頁目)に掲載。

*3:「WB」の紙面・内容をどこか意識して作ったように感じられる。

*4:

乳と卵

乳と卵

*5:

わたくし率 イン 歯ー、または世界

わたくし率 イン 歯ー、または世界