都市を使用する権利

urotanken2007-02-17




東浩紀・北田暁大著『東京から考えるー格差・郊外・ナショナリズム』(NHKブックス、本体価格1160円+税、ISBN978-4-14-091074-0)はポスト・バブル世代(1971年生れ)の二人の論者(この二人がともに東京「郊外」の出身者であり、<郊外から考える>東京論・都市論である点がミソである)が、「渋谷から都市」「青葉台から郊外」「足立区から格差」「池袋から個性」「東京からネイション」を考えるという5つの章立てのなかで、印象的に語りあっている。<印象>的にといったのは、本人たちもそれを自認しながら、<現実>的に考えるだけではなく、<イメージ>としての東京を語るための断りと捉えなくてはならない。(とりわけ北田氏はそのように考えているわけだ)。そうでなくては上のいささか大見得な括り方によって論じることなどできないだろう。<印象>から都市を考えなくてはならないという事態は、都市そのものを語ることの限界が露呈しているとしても、都市を考える可能性へ向けた出発なのではないかと期待してしまう。そして彼らによる<東京>の地勢図が、<東京人>ではなく、二人の<郊外人>によってなされているという留保を肯定的に捉えたい気持になる(同世代ゆえか、彼らとの隔離された共闘の意識を認めることにやぶさかではない)。  
共感するのは別の理由がある。東京<について>語りたがるのは、いつだって余所者田舎者意識の(消費者根性)なせるわざであり、そしてしかし、余所者でなくては東京<について>考える醒めた意識も意外に獲得しにくいのではないかと思うからだ。アンリ・ルフェーヴルが述べたように、都市の生産は都市<のなかで>(dans)なければ捉えられないはずのものだが、東京<について>(sur)の諸関係を語るための、反ー都市の視座が<東京郊外>という外部であった。しかしながら<東京郊外>が反対に、<東京>に積極的に組み込まれていく事態が進行中であること、<都市性>を<反ー都市性>によって塗り替えつつある<東京>のイメージを、都市計画から論じることに何の意味があるだろうか。お上りさんがもう不可能になる日も遠くはない、そんな危惧を抱くのはおかしいだろうか。
都市の「個性」が失われるかもしれないというこうした畏れは、誰のために都市があるのか、その権利問題を考えてみようという発想に行き着く。本書で挙げられる下北沢問題(補助54号線計画)がその顕著な例である。下北沢という都市のイメージ=個性は昔から存在していたわけでは毛頭なく、ある「世代」の共同幻想によって培われたものであるが、その「世代」が巣立ち、別の「世代」に土地が譲り渡されるとき、街のイメージ=個性が塗り替えられて失われていくことは、致し方ないことなのだろうか。「個性ある街並みというのは、共同幻想型のテーマパークとしてしか残りようがない」(北田氏)と嘆かなくてはならないのか。この街の「個性」を保存・破壊する権利は住民の論理だけではなく、利用するあらゆる消費者たちの権利として考えるという倫理的態度は不必要ではないのではないか。事態が起こる(avoir lieu)その場所(lieu)が無くなってしまうと、事態はもう起こらなくなる。レトリックではなくて、これは本当にそうなのである。

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

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空間の生産 (社会学の思想)

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